静岡出身 里中ハル 新海元 久利生公平 沖島柊二 片桐哲平 瀬名秀俊 上田武志 誰よりも木村拓哉と静岡県清水市(現静岡市)と清水エスパルスと清水東サッカー部を愛す 気がついたら33歳


by sousukeid
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政令指定都市 静岡市

静岡市が14番目の政令指定都市に…来年4月移行

 政府は22日の閣議で、静岡市を来年4月1日から政令指定都市に移行することを決めた。政令市の誕生は、昨年4月のさいたま市以来で、全国で14番目。

 昨年4月、旧静岡、清水の両市が合併した静岡市の人口は約70万3000人で、千葉市の約91万8000人を下回り、政令市では最少となる。

 行政区は、葵(あおい)、駿河、清水の3区。来年3月に市議選(定数53)が予定されている。

 閣議決定を受け、静岡市の小嶋善吉市長は「与えられる事務権限を有効に使い、より自立した都市を目指し、横浜、名古屋間の存在感のある都市となっていきたい」と抱負を語った。


ついにやりました。
僕の生まれた街が、政令指定都市の仲間入りを果たしました。
もう、田舎なんて言わせません!!

清水市(現静岡市清水)で生まれ育った僕にとって、18歳で上京した時のあの感動は忘れられません。
なんて田舎に住んでいたのだろう。。。
と思うことが多々ありました。

だって都会は、コンビニに駐車場が無いし、
電車は、駅のホームを歩いているうちに次の電車が来るし、
新宿や渋谷は夜中でもたくさん人が歩いてる。。。

別に政令指定都市になったからって、都会になるわけじゃないですが、
きっと、たくさんの資金が集まって、街全体がキレイになることでしょう。

よかったです。


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by sousukeid | 2004-10-22 12:08

これからは有機ELだ!!

昨日、久しぶりに家に帰って、ニュース以外のTV番組を見たら、、、

TBSで、『有機EL』の紹介をしていた。

そもそも有機ELとは、

有機EL(エレクトロルミネッセンス)素子。
液晶ディスプレーよりさらに薄い表示装置を作れる次世代技術のことです。

既に携帯電話用などに数種の色を出す小型表示装置が製品化されました。
生産コストの低減と製品寿命を延ばすことが課題で、テレビなど大型表示装置への応用や、フルカラー化を目指した開発競争が盛んです。

電圧をかけると素子自体が発光する有機ELは、液晶ディスプレーのように後ろから光を当てる必要がありません。
バックライトがない分だけ薄くなるのに加え、消費電力も少なくなります。
どんな角度からでもきれいな画像を見られるのも特徴です。

柔らかいプラスチック上に有機EL素子を並べれば、紙のように薄く曲げられる表示装置にすることもできます。



というわです。


これが、すごい技術で、TVに出演していた技術者は、

『5年後には、町中が有機ELに包まれているだろう。』

と豪語していました。


技術のすごさを目の当たりにしたこの有機EL。
ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、この技術がどんどん商業化で実現していけば、
くるくる丸めることができるノートPCや、大型TVなど、すぐに登場するのは間違いなしです。

そんなものを開発したら、とても気持ちがいいんだろうなぁと思いました。

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by sousukeid | 2004-10-13 16:13

 久しぶりのブログで、緊張してはいるけれど、ブログ休息中に、アメリカメジャーリーグでは、とんでもないことが起こりまくっていましたね。

 整頓するまでもないけれど、

●イチロー262安打ジョージシスラーの257安打記録を84年ぶりに抜きさり、新記録樹立!!

●松井秀樹31号HR・108打点!!(3割に届かず・・・)

松井も十分すぎるほどすごいけれど、松井秀樹は今日から行われているプレーオフがあるので、ミスターオクトーバーになることを祈って、今回はイチローさんの話題で・・・

天才!!
って思ったのは、210安打した年に思いました。
当時僕は野球チームに所属していました。
静岡県清水市(現静岡市)の清水四中で、野球をしていました。
おそらく2年生だったころでしょう。

小学校のころなどは、野茂のピッチングフォームをものまねしてキャッチボールをしたり、落合・清原とかのものまねをして遊んでいたのを覚えています。

210安打した年に、イチローさんの歴史みたいなドキュメント番組がよく報道されていて、彼が愛工大名電出身だとか、昔はピッチャーだったとか、少年のころからバッティングセンター毎日通っていたとか、ハワイのリーグで首位打者をとった??とか、、、そんなことを知った覚えがあります。

正直、そのころのプロ野球とかでは、首位打者なんかは、毎年異なっていました。
なので、僕は、今年だけだろう・・・とか思ってましたが!!
7年連続パ・リーグ首位打者!!
初めて首位打者をとった当時中2だった僕の、ひとつ年下の松坂君が甲子園に出て、西武ライオンズにドラ1で入った1999年に対戦するまで(2000年まで首位打者)、ずーと首位打者ってことになります。

きっと、生きている世界が違うんでしょう。
と僕とか、マスコミは片付けたがりますが、イチローさんの努力とか、そういうモノは、半端じゃなかったのだと思います。

278安打目を打ったときは、僕は会社にいたので、web上で確認しただけでしたが、なぜか涙が出そうになったのを覚えています。

これが、僕が毎日チェックしまくっていたスポーツナビのイチローページのその瞬間を表現した場面です。


■第2打席:センター前ヒット・年間最多安打新記録

カウント
B ●●
S ●●
O  

 3回裏のマリナーズの攻撃はイチローから。2ストライク2ボールから真ん中低めのストレートを打って、打球はショートの横を抜けて、センターに転がる。84年ぶりに年間最多安打を更新する258本目のヒットとなった。

 マリナーズベンチから選手が全員飛び出し、イチローをベース上で祝福。その後、観戦に訪れていたシスラーの長女のもとに駆け寄り、握手をした。



もう、感動で感動で。。。

結局それ以来、262安打までヒットを重ねて、今シーズンは終えました。
みんなの心に残った瞬間だと思います。

イチローさんは、昔からマスコミ嫌い??みたいな感じでヒーローインタビューとかで無愛想な態度をとっているイメージが強かったのですが、逆に今回はとても喜んでいましたね。
昨年スランプで、何とか3年連続200本安打を記録したときと同様、彼の言葉は説得力というか、裏付けるものの大きさみたいなものがあります。以下、コメント(スポーツナビ記事抜粋)を掲載

 今季257本目のヒットは、いとも簡単に生まれた。

 初回の第1打席。消化試合にしては信じられない4万5573人の観客の前で、イチローが左方向へたたきつけた打球がサードの頭上を越える。打った本人が、「サードの頭を、越えろ」と念じた分だけ、打球は高く跳ねた。

 花火とともに、スタンディングオベーション。たっぷり5分はあっただろうか。あまりにも長すぎて、イチローも戸惑う。2度までもヘルメットを脱いで、ファンに応えた。
「どう自分がリアクションしていいのか、確かに難しかったです」
 とイチロー。しかし、
「そこは素直に、自分の感情に任せました」

 オークランドで記録達成かと思われたが、あと1本が出なかった。が、結果的にホームの観衆の前での記録更新は、ファンのシナリオどおりとなった。

「(昨日の試合は)1本出て、その後3打席ありましたけど、3つ凡退したときは、本当に悔しかった。でも今となっては、結果的にオークランドで出なくて良かったなって思います」

 記録更新は、3回の第2打席。球足の速い打球は、ショートの右を抜け、センター前へ。その時、花火と観客のスタンドオベーションは変わらなかったが、イチローを大きく驚かせたことがあった。

「まさかね……」
 なんと、一塁ベース上にいるイチローのもとに、ダッグアウトにいた監督、選手、コーチ全員が、飛び出して来たのだ。

「ファンの人の反応というのは、ある程度、まあ1打席目を終わって、何となく分かるじゃないですか。でも、わざわざダッグアウトから、選手や監督が出て来てくれるなんてことは、まったく考えていなかったですし、試合が終わってからビールをかけられることも、まったく想像できなかったですね(笑)」
 試合後は、シャンパンシャワーではなく、ビール。イチローは全身にビールを浴び、会見場に入って来たときは、アルコール臭かった。

 会見で最初にされた質問は、打ったときの心境。イチローはこう言った。
「今は、少し時間が経っているので少し冷めてるんですが、達成した直後は、かなり熱かったですね。もうこれまで、僕の野球人生の中では、最高に熱くなりました」

 「257」という数字をいつから意識したかと問われれば、「できる、できない」の葛藤があったことをうかがわせた。
「具体的にイメージするようになったのは、当然200本を超えてから。『普通にやっていけばできるかもしれない』――そんな風にも考えたんですけど、この前のホームスタンドではなかなかヒットが出なかったんで、厳しいかなあって逆戻り。でも、アナハイムで5本、4本とヒットが出て、その時にまた『可能性が出てきな』って思いましたね」

 その「257」という数字だが、知ったのはプロ3年目にオリックスで210安打を放った1994年のことだったという。
「あの年に、アメリカではこんな人がいるってことを、聞かされた記憶があります」
 そして、その時の印象をこう語った。
「大リーグでは162試合と聞いていたので、あと32試合。もしこのペースで行けば、『できるのかなあ』って感じましたね。(逆に)このペースでなければ、届かない数字――そうやって考えたこともありました」





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by sousukeid | 2004-10-06 15:45